嵐の中
やっとブログが追いついた。
今日、通院後、彼女のお母さんの告別式場に行ってきた。
喪服を着て、香典を持って、正式に参列・・・するわけにいかない。
メールで場所と時間を知らせてくれた理由がわからなかった。無意識にしたことだとしても、どこかに来てほしい、頼りたいという無意識が働いた、と勝手に解釈したからだ。
葬儀場は、〇〇川の土手近くにあって、そこから一望できる。距離にして10メートルもないが、桜の木が植えられて葬儀場からは死角になり、ベンチもある。
開始時間ちょうどに、そのベンチに腰を下ろし、出棺までいた。
中の様子はわからないけど、葬儀場の係員の動きなどでだいたい進行状況はわかる。
心の中で手を合わせた。
非常識、偽善、自己満足と言われてもかまわない。ただ、今、好きな人の大切にしている人が亡くなった、好きな人に来てほしい、頼りたいと思われていることに応えたいと思ったからだ。
出棺のとき、泣き崩れている彼女を見た。それを支えるお姉さん。
お子たちも泣いていた。
こういうのは何度見ても、たまらなくつらい。
この家族を不幸にする自分の存在が一瞬、嫌になった。
その反面、今後彼女はどう言ってくるのか不安になった。
冷静さを取り戻した彼女は多分、「許されない僕との関係が母を不幸にした」、「あたしが母を殺した」と考えるはずだ。思い出したのだ。彼女がすごいお母さんっ子だったことと何か悪いことがあると他人より自分を責める人だったことを。
身内の不幸は家族の絆を強める。
不仲な旦那さんが、お子たちを慰める姿を見て彼女は正気を取り戻すかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった。
それはそれでいいかもしれない。
でも、こう都合よくも考えた。
ご主人との生活は破たん寸前で、お子たちが唯一の絆。だから、お子たちが独立したあとの別居するための棲家まで準備している。彼女はそのことをお母さんとお姉さんには相談し協力してもらっている。
過日、彼女が言っていたことをふと思い出した。
僕と再会してから実家をかたずけていたら、昔付き合ってたときに、ぼくからの手紙がでてきたよ。母がそれを見つけたのよと。
それに、水曜日の部屋デートのとき、帰り際のお母さんからの電話・・・
これらはお母さんが彼女の将来の不安を考えて、最期にぼくらを引き合わせてくれたことを気づかせるためのメッセージだったのではないかと。
ただの偶然ではなくて、こうなることは必然だったのではないかと。
いずれ落ち着いたら、彼女から連絡があるだろう。
そのとき、彼女は前者の結論を伝えてくるのか、慰めを欲するのか。
どちらかは彼女が結論を出すことだ。
ただ、前者でないときに、彼女を慰め、励ます言葉を探しておくことにしよう。
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